1969年、長崎県五島列島に生まれる。
2歳の時に大病をし療養のため母の里である大分へ家族と共に移り住む。
中学卒業後、大分県立大分工業高校定時制に通いながら大工の弟子として従事する。
1989年親元を離れ大阪にて(株)宮正工務店に弟子入り。
1993年大分に戻り、2003年(株)坂井建設代表取締役として父の後を引き継ぐ。
自分自身が家庭を持ち、3人の子の父親となり家を建てようとした時、
大工をしていても安い金額で良い家を建てることができない住宅業界の矛盾を肌で感じ、
どうすれば「安くて良い家を建てることができるか」ということについて貪欲に学び始める。
当時、日本最大の住宅ネットワーク「アキュラネット」に所属しローコスト住宅造りの基礎を学び、2001年「サラダホーム事業部」を立ち上げ「子育て世代応援住宅」というキャッチフレーズで活動を開始。
2004年12月フォーセンス(株)設立・取締役就任
2005年1月NPO法人住宅法律相談室理事就任
2006年3月リフォーム専門会社として笑顔屋(有)設立
2019年7月末に「(株)坂井建設」を退職。
現在は建築に関わる職人を育成するために現場で大工として現場の現状を知るために日夜働いていいます。
家って何の為にあるのでしょうか?
家づくりって何の為にするのでしょうか?
家族が健康で安心して楽しく暮らせる環境こそが家(私)の役目だと思います。
その為に私たちは、主役である家族を支えられるサラダホームの家づくりを
目指しています。
実際に私が体験してきたことが今のサラダホームの礎になりました。
私の父は、工務店の社長というより職人の親方でした。
母も大工をしていて住み込みのお弟子さん達と、朝早くから夜の10時まで現場で働いていた為、私は物心ついた時から家よりも現場にいることが多かったように思います。
現場にプレハブを置きそこでご飯を食べ泊まりこみで仕事をしていた父と母の姿が今でもまぶたに焼き付いています。
私自身このころから『大きくなったらお父さんに負けない腕のいい大工の棟梁になって家族の為に働くぞ』と強く思っていました。
学校に通い始めてからも学校が終わると母が迎えに来てくれて現場の近くで遊び、現場でご飯を食べそこで寝るというのが当たり前の毎日でした。
借金の連帯保証人に父がなっていた人が事業に失敗し我が家はとてつもない借金を背負うことになりました。
そこから我が家は貧乏生活に突入して行きました。
私も家族の為中学を卒業した翌日から住み込みの大工さんに弟子入りしました。
「高校くらいは出ておいたほうが良い」
という母の強い思いもあり、定時制高校に通いながらの大工修行のスタートでした。
このころから、友人と遊ぶ面白さに目覚め「家族を支える為に早く一人前の大工になる」という気持ちも忘れ
毎日遊び狂う毎日でした、、、
一年が経った頃、、、師匠から
「泰久は大工には向いてない…こんなに覚えの悪い奴は無理だ」
と事実上のクビを言い渡されました…
父もなんとか自分で教え込もうと思っていたようですが、私自身が遊ぶことに没頭してしましい。
定時制に通っている間は大工になることができませんでした…
その後私は、「これではダメだ」と気持ちを入れ替え大阪へ修行にでました。
それから一年間がむしゃらに仕事に没頭し無事弟子を卒業し一人前の大工となることができました。
23歳の時に大分へ戻り、父と母と共に仕事をすることになりました。
しかしそれから3年後の26歳の時に父が3階から1階のコンクリートの床に落下し
「脳内出血」「脳挫傷」「くも膜下出血」でもう助からないと言われる事故に遭いました…
父が倒れ、今まで父がやっていた大工工事以外のすべてを考えなければいけない状況になりました。
「腕が良い大工」として有名だった父が倒れて大工仕事をできないことを知ったお客様は、みなよその工務店へと流れていきました…
「坂井建築も終わりかな…」本気でそう思いました。
この頃から貧困生活にさらに拍車がかかりました。
結婚をして子どもの生まれた僕にとってこの状況は自分のことだけではなく
守るはずの家族に悲しい思いをさせている…そんな苦しい気持ちの続く毎日でした。
その後は、家族を養う為に、公共工事もやりました。
側溝のドブ浚いや、河川プールの造成工事など
妊娠していた妻も現場で作業の手伝いをしていました。
当時坂井建築の家づくりは純和風の高級住宅ばかりで肝心の私が家を建てようと思ってもとても金額が高くて建てられないとい現実に直面しました。
私の年収でも家族と無理な生活をしなくても支払いが可能な、家づくりをしていきたい。
「子育てをしている人たちこそ住宅が必要だ!そんな人達が安心して住める住宅を造りたい!」
この思いが、サラダホームを作ろうと決意した私の原点なのです。